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ヘフティ・レフティのレガシー

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ジャレッド・ロレンゼン(Jared Lorenzen)氏を覚えていらっしゃる方、いらっしゃるでしょうか?

プロの世界では2004年から2007年までニューヨークジャイアンツに所属したQBで、2007年度シーズンに行われた第42回スーパーボウルに優勝したジャイアンツの一員でした。当時はイーライ・マニング(Eli Manning、元ミシシッピ大)のバックアップを務めていましたが、スーパーボウルでの出場はなかったもののチームの一員として優勝リングを手に入れました。

その後はアリーナフットボールでほそぼそと活動。2014年に現役を引退するとその後はラジオ番組などに登場。そして2019年7月に心不全と腎不全からの感染症により38歳という若さで他界されました。

ロレンゼン氏といえばなんといっても巨漢のレフティーとして知られ、「ヘフティ・レフティ(Hefty Lefty、巨漢の左利き)」という相性で親しまれていた人物。個人的にはカレッジフットボールにハマりだした当初である2000年から2003年まで活躍していたケンタッキー大時代から見ていた選手です。

当時からQBなのにラインマンなのかというくらいの体つき。にもかかわらずQBとして想像以上の活躍。ケンタッキー大といえば1999年のドラフトで総合ドライチQBとなったティム・カウチ(Tim Couch)氏を思い起こす方もいらっしゃるかと思いますが、ロレンゼン氏はそのカウチ氏が保持していたスクールレコードであるトータルオフェンス、パスヤード、パスTD数を塗り替え、パスヤード記録は未だに破られていません。

参考記事NFLで期待を大きく裏切った「ドラフトバスト」たち③

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ケンタッキー大

6インチ4フィート(約193センチ)に285パウンド(約130キロ)という想像を絶するフレームを持っていたQBロレンゼン氏。彼をリクルートし1年生時から先発QBに任命したハル・マミー(Hal Mumme)監督は、最初に彼と遭遇した時ロレンゼン氏をラインマンだと見違えたといいます。

高校時代からQBとしてプレーしたロレンゼン氏は3年生時に合計60TDを叩き出し、またバスケットボール部や野球部でも活躍し周囲の人々はどのスポーツにおいても大学レベルで十分にやっていけると太鼓判を押していたほどでした。

大学ではフットボール一筋と思っていたロレンゼン氏でしたが、カレッジコーチたちはオフェンシブラインマンかタイトエンドが関の山だだと言われていました。しかしマミー監督はロレンゼン氏の才能を見抜いていたのです。

「彼が非常にクイックなリリースを持ち、類まれなる投力を持っていたのは明らかでした。QBに求められるすべてを彼は保持していたのです。一見オフェンシブラインマンかのような姿格好に惑わされてはならないんです。」とは当時のマミー監督の話。

マミー監督といえば超パスオフェンスとしてしられる「エアーレイド」オフェンスの生みの親。またなかなかのギャンブラーでも知られ、今でも強烈に覚えているのは自陣内からの攻撃だと言うのに4thアンド10ヤードというシチュエーションでコンバージョンを狙っていたことです。

そんなマミー監督に見初められ1年生時から先発を任されたロレンゼン氏。巨漢のQBにサウスポー。そして身につけた背番号はQBとしては珍しい「22」と何につけても周りと一線を画す選手でした。

大学時代は平均して300パウンド近い体重を維持していましたが、マミー監督はチームのアスレティックトレーナーにロレンゼンの減量を指示。しかし「逆にアスレティックトレーナーの体重が減るだけだった。」とマミー監督は笑いました。

そんなマミー監督はロレンゼン氏が2年生になる前にNCAAの規則違反(リクルーティング違反)により解雇処分に。チームはオフェンシブラインコーチだったガイ・モリス(Guy Morris)氏を次期監督に立てます。そして2年後の4年生時にはモリス監督がベイラー大の監督に就任したため、大学最後のシーズンは自身3人目の監督としてアトランタファルコンズでディフェンシブコーディネーターをつとめたことのあるリッチ・ブルックス(Rich Brooks)氏に率いられることになります。

「彼の巨漢には驚かされましたが、それ以上にその体格にもかかわらずQBとしての能力に秀でていたことにさらにびっくりさせられたものです。」とはロレンゼン氏と初めて対面した時のブルックス監督の感想。

ブルックス監督もロレンゼン氏の減量に挑戦し、二人でサウナに入ってどちらが体重を落とせるか競争したそうです。春季トレーニング中にブルックス監督は15パウンドの減量に成功し、ロレンゼン氏も体重が260パウンドにまで減ったのだそうですが、夏に実家に帰省してキャンパスに戻ってきた頃には体重はリバウンドしていたのだとか。

しかしロレンゼン氏にとって自身の体重などまったく気にならなかったようで、監督らの心配をよそに彼は数々のケンタッキー大の試合でファンを魅了しました。結果的に大学4年間でのトータルパスヤードは10354ヤード、パス成功回数862回(どちらも大学最多記録)と言う数字を残し、稼いだTD数も全部で90個と確実にケンタッキー大フットボール史にその名を刻んだのです。

最も記憶に残っているのは彼の1年生時(2000年)のジョージア大戦。驚きの528ヤードを投げ切って当時12位だったジョージア大を追い詰めあと一歩のところで大番狂わせを起こした試合でした。また2002年にはチームの7勝5敗シーズンに貢献。7勝と言うのはケンタッキー大フットボール部史上1984年以来の最多勝利数でした。

そのいでたちだけでなく弱小だったケンタッキー大に興奮と希望をもたらしたロレンゼン氏は瞬く間にケンタッキー大ファンのアイコン的存在になりました。

「もしあの時今のようなソーシャルネットワークが存在していたら絶対に彼は想像を絶するスターダムを謳歌していたでしょう。」と話すのはロレンゼン氏の元チームメイトのシェーン・ボイド(Shane Boyd)氏。「あの体格であれだけのプレーが出来るなんて、本当に見ていて驚きの連続でした。彼が今プレーしていたとしたらとんでもない注目を浴びていたでしょうね。」

NFLそしてアリーナフットボールへ

ケンタッキー大を卒業後NFL入りを目指しますが、2004年のドラフトではどのチームからも声がかからず、ドラフト外フリーエージェント(UDFA)でニューヨークジャイアンツへ。先ほども述べたとおりここで2007年度シーズンのスーパーボウル覇者となりますが、彼がプレーしたのは4試合。そのうち彼のハイライトとなるのは2007年の開幕戦だったダラスカウボーイズ戦、先発のマニング氏が怪我で退いた第4Qに登場した場面。またその翌週のグリーンベイパッカーズ戦にも登場。この2試合で4つのパスを成功させて稼いだヤードは21ヤード。結果的にこれがプロでのロレンゼン氏の最後のプレーとなりました。

しかしシーズンを通してテレビではマニング氏の肩越しに巨漢のロレンゼン氏が何度も映り、プロでは結果を残せなかったもののその存在感はバックアップながら抜群でした。

ジャイアンツからリリースされるとインディアナポリスコルツに拾われますが、シーズンを迎える前に再びリリースされ、その後はアリーナフットボールに身を置きます。そして舞台が小さくなっていけば行くほど彼の体格はさらにその大きさを増していきました。

そうやってしばらく全米の表舞台から消えたロレンゼンしでしたが、2014年のCIFL(Continental Indoor Football League )の開幕戦、ノーザンケンタッキー・リバーモンスターズの先発QBとなったロレンゼン氏は体重400パウンド近い超巨漢となって久しぶりにメディアに登場。どう見てもQBには見えない出で立ちでしたが、想像以上の動きを見せて彼のプレーは全米中でバズったのでした。

ただ残念ながら翌週の試合でロレンゼン氏は足首を骨折。これが選手生命を断つ怪我となってしまい引退を余儀なくされました。


ジャレッド・ロレンゼン・プロジェクト

フットボール選手というたかが外れ、ロレンゼン氏の体重はさらに増えていきます。彼自身も自分が「ヘフティ・レフティ」と呼ばれていることを気に入っており、巨漢であることが自分のアイデンティティとなっていたため、自分の体重が増え続けることをあまり気に留めていなかったようです。

しかしその体重が500パウンド(約225キロ)まで至る頃にはいよいよ自分の健康状態を危惧するようになり、このままだと余命は5年だと告げられ「ジャレッド・ロレンゼン・プロジェクト」を立ち上げて地震の減量の全てをドキュメンタリーに収めることを決意しました。2017年のことでした。

その結果彼は9ヶ月で100パウンド(約45キロ)の減量に成功。その模様はESPNで紹介されたのでした。

しかしその翌年の2019年7月3日。独立記念日の前日にロレンゼン氏は息を引き取ります。心不全と腎不全からの感染症が直接の原因ですが、言わずもがな彼の死因はオーバーウェイトに起因していました。

ビッグ・ボディ、ビッグ・ハート

現役を引退した後、ロレンゼン氏はケンタッキー大のあるレキシントン市のラジオ局のスポーツリポーターだったライアン・レモンド氏がホストしていたラジオ番組にゲストホストとして度々登場するようになりました。

レモンド氏はロレンゼン氏がケンタッキー大に所属していた時から彼のプレーを追っており、多くのファン同様レモンド氏もロレンゼン氏に見せられていきました。そしてそれはレモンド氏の息子であるマイケルくんにも同じことが言え、彼もロレンゼン氏のフィールド上の活躍に魅了されていきます。

実はマイケルくんは学校で友達ができず悶々とした日々を過ごしていました。成長が少し遅かったことと、マイケルくんが養子だったことが原因ではないかと両親は考えていたそうです。

そこでレモンド氏はマイケルくんが大好きなロレンゼン氏にマイケルくんの誕生日パーティーに飛び入り参加してくれないかとダメもとで頼んでみたところ、ロレンゼン氏は喜んで受諾。

そのパーティーでロレンゼン氏はジャイアンツ時代に獲得したスーパーボウルリングを子供らに見せたりして共にはしゃぎ合い、マイケルくんと彼の友達の橋渡し役となりました。そしてその日からマイケルくんの性格が明るくなり友達付き合いも良くなっていったとレモンド夫妻は話し、それもこれもロレンゼン氏のおかげだと感謝の言葉を述べています。

その後もロレンゼン氏とマイケルくんは交友関係を深め、マイケルくんがレモンド氏とロレンゼン氏のラジオ番組を見学したり、またマイケルくんが学校で何か問題があった際にはロレンゼン氏が自ら電話をかけて相談に乗ったりする関係にまでなっていました。

「ジャレッドはいつでも誰もが必要とされている重要な人間なんだというメッセージを送っていました。」と語ったのはロレンゼン氏の母・ジャネットさん。

先に紹介した「ジャレッド・ロレンゼン・プロジェクト」の立ち上げのきっかけは当然自分の超過体重を改善するためのプロジェクトだったわけですが、その裏には自分と同じ境遇にいる人たちへメッセージを送りたかったからなのかもしれません。プロジェクト自体は何事も包み隠さず自分をさらけ出す、時に辛いことでした。しかしそれはただ自分だけのためではなく、自分と同じように肥満で悩む人たちの勇気となるためだったに違いありません。

ジャネットさんも話したようにロレンゼン氏は自分を犠牲にしてでも周りの人々に自分自身の大切さを気づかせたかったのです。普通なら人助けをする前に自分自身の問題を解決しそうなものですが、ロレンゼン氏はそれをしませんでした。

トリビュート

2019年10月12日。ケンタッキー大のホームスタジアムであるクローガーフィールドには6万人近い観客がかつてロレンゼン氏が纏っていた背番号22のレプリカジャージを来て集まっていました。ロレンゼン氏の追悼式が行われたのです。

この日はアーカンソー大との試合が予定されていました。遡ること16年前の丁度同じ日、ロレンゼン氏が先発出場したケンタッキー大はこの日と同じアーカンソー大と対戦。

2003年のこの対戦カードでは、後半ケンタッキー大がリードを奪われ敗戦濃厚となるとファンらが次々と試合終了を待たずにスタジアムを後にし出しました。それを見たロレンゼン氏は「一体みんなどこに行くっていうんだ!?これから起こる大逆転劇を見逃すことになるぞ!!」と観客に叫んだのです。

そしてそれはほぼ現実のものになります。ケンタッキー大は土壇場で同点に追いつきオーバータイムへ突入。そしてなんと7回もオーバータイムを繰り返し、結果71対63というまるでバスケットボールの試合のようなスコアとなり惜しくもケンタッキー大は負けてしまいます。しかしそんな敗戦をへてロレンゼン氏の知名度はまたグンっと上がったのです。

その試合から16年。この日はスタジアムにはファンが埋め尽くされ立ち去る人などいるはずありません。

試合開始前、オーロラビジョンで在りし日のロレンゼン氏のハイライトビデオが流され多くのファンが故人を偲びましたが、スタジアムではその後黙祷を捧げる代わりに22秒のカウントダウンの間盛大に歓声を上げてロレンゼン氏を送り出しました。それは体格そしてハートも壮大なスケールの持ち主だったロレンゼン氏にはしめっぽさは似合わないという粋な計らいでした。

ケンタッキー大ファンのなかで永遠に生き続ける「ヘフティ・レフティ」のレガシー。唯一無二のその存在は確実にカレッジフットボールの歴史の中に刻まれることでしょう。

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