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これまで当サイトで紹介した歴史記事を読んで頂くとお分かり頂けるかも知れませんが、史上初のカレッジフットボールの試合プリンストン大とラトガース大の間で行われたり、その対戦にコロンビア大が参戦したり、また「アメリカンフットボールの父」と呼ばれるウォルター・キャンプ(Walter Camp)氏がイェール大出身だったり、そのイェール大としのぎを削った永遠のライバルがハーバード大だったりと、カレッジフットボール創成期には現在で言う「アイビーリーグ」大学が多く名を連ねていました。

歴代最多優勝チーム(NCAA1部)

1位:イェール大(18)
2位タイ:アラバマ大(18)
2位タイ:プリンストン大(15)
4位:ノートルダム大(13)
5位タイ:ミシガン大(9)
5位タイ:サザンカリフォルニア大(9)
7位タイ:ハーバード大(8)
7位タイ:オハイオ州立大(8)
9位:オクラホマ大(7)
10位:ミネソタ大(6)

現在で言うFBS(フットボールボウルサブディビジョン)だけで言えばアラバマ大が最多優勝チームということになりますが、FCS(フットボールチャンピオンシップサブディビジョン)も含めてNCAA1部全てで見た場合、最多優勝の栄冠はアラバマ大ではなくアイビーリーグのイェール大のものとなります。

さらによく見てみればプリンストン大、ハーバード大というアイビーリーガーも名を連ねており、アンシャンエイト(古代の8チーム、アイビーリーグの別称)の存在感を示しています。

実際彼らがナショナルタイトルを獲りまくったのはカレッジフットボール創成期のことですが、そのナショナルチャンピオンのリストを見てみると1869年から1901年まで連続でアイビーリーグチーム(ハーバード大、イェール大、プリンストン大)が独占しており、その後も1920年代まで彼らが時代を引っ張っていたのです。1922年にプリンストン大が歴史上でアイビーリーグチーム最後の全米王者となりましたが、カレッジフットボールの興隆は彼らなしには語ることは出来ないのです。

アイビーリーグとは?

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「アイビーリーグ」といえば8チームからなるアメリカ北東部に位置するカンファレンス。そこに属するのはブラウン大コーネル大コロンビア大ダートマスカレッジハーバード大ペンシルバニア大プリンストン大イェール大の8校。他のスポーツカンファレンスと比べると所属チーム数は少ないですが、ご覧になれば分かる通りどの大学もアメリカだけにとどまらず世界的に超名門ばかりです。

といってもアイビーリーグという名称ならびにこのカンファレンスが正式に設立されたのは1954年のことであり、それ以前に「アイビーリーグ」という名称は存在していませんでしたが、現在アイビーリーグに所属している大学たちがカレッジフットボールの草分け的存在だったわけです。

由緒正しいアイビーリーグの大学に入学するからには賢いだけではなくそれなりの資金力がなければなりませんでしたから、言ってみればそのような大学に在学していた学生たちは「金持ちのボンボン」であったと推測されます。そんな学生たちが放課後に社交の一つとしてバックヤードで腕を競ったのがアメリカンフットボール(当時ではそれに似たもの)だった訳です。

ある意味特別階級の学生が始めたスポーツがフットボールだったわけですが、それが年を追うごとにアメリカ全土に広がりどの大学でもプレーされるスポーツに成長していったのです。そういった意味では彼らの存在なくしてカレッジフットボールを語ることは出来ないということになります。

アイビーリーグの中でもプリンストン大、ハーバード大、イェール大、ペンシルバニア大の4校の強さは当時別格で、彼らがしのぎを削る過程でサッカーとラグビーをかけ合わせたようなスポーツがルール制定を経てアメリカンフットボールへと様変わりしていきました。ただ単に自らの強さを誇示することが目的だったものからボールを持って走ることに喜びを感じるようになり、さらにはフォワードパスが許され、選手交代が無制限になったことによって現在我々が目に見るフットボールに進化したのです。

もちろんそれには以前お話したイェール大のキャンプ氏の存在があり、また1876年から1909年までのイェール大の勝率はなんと93.4%と圧倒的で、プリンストン大のそれが90%(1877年〜1903年)、ペンシルバニア大が87.5%(1894年〜1908年)と当時のアメリカンフットボールといえば彼らが代名詞のようなものでした。


ウィリアム・「パッジ」・ヘッフェルフィンガー

そんなカレッジフットボール創成期で最も偉大な選手と言われているのはイェール大出身のウィリアム・ヘッフェルフィンガー(William Heffelfinger)氏です。6フィート3インチ(約190.5cm)に205パウンド(約93kg)という当時だとかなりの巨漢だったヘッフェルフィンガー氏についたあだ名は「Pudge(ずんぐりむっくり)」。しかし彼はカレッジフットボール史上初となる、オールアメリカンに3度も選出されるという偉業を成し遂げました。

(もっともこのオールアメリカンを選出していた当本人がイェール大にゆかりのあるキャンプ氏だったことに多少のきな臭さも感じますが笑)

キャンプ氏が多くのルールを導入して変革を起こしたことは以前の記事でも紹介しましたが、その中でもフットボールに革命を起こしたとさえ言われているのがブロッキングのルールです。これはオフェンスのボールキャリア以外の選手が故意に相手をブロックしても良いとしたことを指しますが、 まだパスオフェンスが確立されていなかった当時の花形はランオフェンスであり、ボールキャリアに道を開けるべく並み居るディフェンダーたちをなぎ倒すガードポジションを担ったヘッフェルフィンガー氏の活躍は光っていました。つまり当時はボールキャリアよりもOLの方にスポットライトが当たっていたのです。

ヘッフェルフィンガー氏が1年生だった1888年シーズン、イェール大の総得点は694点で失点はなんとゼロ。当時無敵の名をほしいままにしたイェール大の中心選手としてヘッフェルフィンガー氏は君臨しました。

エイモス・アロンゾ・スタグ

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そしてヘッフェルフィンガー氏と同じイェール大でエンドポジションを担っていたのがエイモス・アロンゾ・スタグ(Amos Alonzo Stagg)氏でした。スタグ氏はキャンプ氏と並び称されるカレッジフットボール創成期の偉人であり、カンプ氏が確立した基礎をさらに昇華させた人物だとも言えます。

イェール大を出た後コーチ業に足を踏み入れたスタグ氏は1892年にイリノイ州にあるシカゴ大のフットボール部監督に就任。以来41年間も同一チームで指揮を執り、カンファレンス(ウエスタン、Big Nine、Big Ten/全て改名した同一団体)タイトル7回にナショナルタイトル2回と華々しいキャリアを残しました。

しかしスタグ氏が残したのは数字だけではありませんでした。ハドル、スナップ前のシフト、ラテラルパス、リバース、オンサイドキック、T-フォーメーション、モーション、スタチュー・オブ・リバティ(トリックプレー)など数々の新プレーを発案。また背番号、練習時のタックル用ダミー、試合に出場できる選手を指す「レターマン」、スタジアムのVIPシート、選手専用の寮施設を最初に導入したのもスタグ氏。さらには1906年にフォワードパスが可能になるとその有効性に着目し、ただ単に当たり強い選手を育成するだけでなくスピードや俊敏性に着目したという柔軟さも持ち得ていました。

元々牧師を目指していたスタグ氏はキャンプ氏にはなかった周囲の人を取り込むセンスを持ち得ていたとされ彼を慕う人は後を絶ちませんでした。70歳でシカゴ大と袂を分かった後も彼はコーチングの道を進み続け、カリフォルニア州のパシフィック大で84歳まで15年間チームを指揮し5度のカンファレンスタイトルを獲得。

またマルチアスリートだったスタグ氏はイェール大の野球部時代に今も使用されるバッティングケージを開発。そしてシカゴ大に移る前にマサチューセッツ州のスプリングフィールドにあったYMCAで教師をしていたときにバスケットボールをプレーしましたが、そのバスケットボールが5人制になったのはスタグ氏のアイデアだったと言われています。

さらにスタグ氏は1924年のパリオリンピックに出場したアメリカ代表の陸上チームの監督も務め、挙句の果てには映画に出演するなど(1940年の「Knute Rockne, All American」)活躍の場の広さはハンパありませんでした。

グレン・「ポップ」・ワーナー

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さらにこのスタグ氏と同時期に活躍した指導者にグレン・「ポップ」・ワーナー(Glenn  “Pop” Warner)氏がいました。スタグ氏に「最も偉大なアイデアマンの一人」と言わしめたワーナー氏もまたコーネル大というアイビーリーグ出身人物。

母校コーネル大だけでなくジョージア大、ピッツバーグ大、スタンフォード大、テンプル大などで監督を務めたワーナー氏も近代フットボールに多くの影響を残した名将。スプレッドフォーメーションやショットガンフォーメーションの礎といわれるシングル&ダブルウイングフォーメーション、スリーポイントスタンス、スクリーンパス、ブートレッグなどを広めたのがワーナー氏だと言われます。

またユース年代のフットボール発展にも尽力し、「ポップワーナー・リトル・スカラーズ」の設立に貢献。5歳から14歳までのユースたちが技を競うクラブの旗本である「ポップ・ワーナー・フットボール」は現在まで存在し続けています。

アメフトの礎となったアイビーリーグ

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このようにチーム・個人レベルでアメリカンフットボールの基礎を固めるのに多大なる影響を残したアイビーリーグフットボール。現在彼らは1シーズン10試合しかスケジュールを組まず、FCSで行われるプレーオフにも参加しないという他のカンファレンスとは一線を画す存在。

カレッジフットボールが全米中に広がり、他チームがスカラシップ(スポーツ奨学金)を武器にタレントを囲い始めると、スカラシップ制度を採用しないアイビーリーグたちは遅れを取り始め、1930年代にもなれば全米の表舞台からは消えていきましたが、1951年にはプリンストン大のHBディック・カズマイアー(Dick Kazmaier)氏がハイズマントロフィーを獲得するなど存在感をアピール。また最近ではキックオフ地点を40ヤードに前進させ、リターン時の怪我(特に脳震とう)の発生率を食い止めようとしたり、初の女性ポジションコーチを起用したりと独自路線を歩んでいます。

パワー5」の名門校ばかりが注目される現在のカレッジフットボールですが、その影にはアイビーリーグという老舗にてカレッジフットボールの基礎を作ったフロンティアたちがいたことを忘れてはなりません。

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