フライングウェッジフォーメーション

近代フットボールはルールの改変やギアの進歩、さらにはトレーニングのお陰で選手のスピードやサイズ、テクニックや強さなどが格段に向上したおかげで創成期ほど危険なスポーツではなくなりました。

しかし今も昔も試合の根本的なところは変わっておらず、どんなに選手のレベルがレベルアップしていたとしても彼らの体に蓄積されるダメージや起きてしまう怪我などは場合によっては引退後にも引きずってしまうようなことも多々あることでしょう。

が、やはりカレッジフットボール創成期の激しさは今とは桁違いだったと言われています。何故ならば近代フットボールは戦術を主とした「騙し合い」の側面を持っているところ、初期のフットボールは単純に体と体がぶつかり合う「力比べ」の様相が強かったからです。

カレッジフットボール=過酷なスポーツ

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全米を代表するほどのライバル関係といわれる陸軍士官学校(アーミー)と海軍士官学校(ネイビー)も早い時期からアメフトチームを世に送り出しており、両チームの直接対決も1890年から始まりました。

当時はホームアンドホーム形式で行われお互いが自分たちの敷地で試合を開催していました。第4回目となった1893年の試合は海軍士官学校があるメリーランド州アナポリス市で行われたのですがこの試合で怪我人が続出。将来の軍人同士が相まみえるわけですから、その激しさは想像に難くないです。

しかしこの試合を受け両陣営はお互いの敷地内でこの対戦カードが行われることを禁止する決定を下します。この結果1899年までの5年間このライバリーが中止に追い込まれる自体に陥ったのです。

ちなみに1899年にこのライバリーが復活するときに際し、当時の決定であるホームアンドホーム形式の禁止という結果を受けて両チームは中立地での試合開催を模索。そして2チームはペンシルバニア州フィラデルフィア市で試合をすることでライバリーの復活にこぎつけたわけです。

このライバリーが現在まで中立地で行われるようになった理由にはこのような経緯があったわけです(第二次世界大戦中を除く)。

また今と比べるとルールが甘かったことも直接的・間接的に当時のアメフトが過酷なものとなるのを助長していました。

例えば当時のカレッジフットボールには選手のプレー資格に明確な規則がなかったため6年や7年プレーできる選手は結構いましたが、これは経験値の差を生むだけでなく長くプレーすればするほど怪我を受ける可能性を増やすことにもつながっていました。

またそれぞれのチームが1シーズンに何試合組むかというのも各大学に任されていたので上記と同じように試合をすればするほど経験値が上がる一方で怪我の確率も上がっていきました。

そしてしっかりとした防具がないにも関わらず1日2試合行うことも日常茶飯事。

その一例としてテネシー州にあるセワニー大(Sewanee)は1899年に12試合中11試合を完封勝ちするというとんでもないシーズンを送ったのですが、この時彼らは6日間の遠征中に5試合を行うという弾丸ツアーをやってのけ、この5試合を全て無失点で乗り切りました(テキサス大、テキサスA&M大、トゥレーン大、ルイジアナ州立大、ミシシッピ大)。しかもこの時セワニー大は攻守あわせてたったの15人しか試合に出場しなかったというのです(全ロースター数は21人だった)。

かつてペンシルバニア州立大で指揮を執ったレジェンド、ジョー・パターノ(Joe Paterno、故人)氏もセワニー大がこの時成し遂げたことを「これまでのスポーツの歴史の中でも最も偉大な業績のうちの一つだ」と褒め称えたほどです。

ちなみにこのセワニー大(現在のUniversity of the South、NCAA3部チーム)は1933年に創設されたサウスイースタンカンファレンス(SEC)の初期メンバーの1つでしたが、1940年までに1勝も挙げることが出来ずにリーグを脱退しています。

そんな中カレッジフットボール界に登場していたのが悪名高き「フライングウェッジフィーメーション」です。


フライングウェッジフォーメーション

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前回の記事でも紹介したように、イェール大出身のウォルター・キャンプ(Walter Camp)氏が様々なルールを導入して現在までに続くアメフトというスポーツの基礎を作り「アメフトの父」と言われるようになりましたが、彼が作ったルールの中にはその意図に反してゲームを過激化するものもありました。その一つがブロッキングを許可したことでした。

いつの時代も与えられたルールの中でいかに最良の結果を引き出そうとするのが自然の摂理であり、当時もルールに準じながらいかに試合に勝つかという作戦が編み出されました。その一つが「フライングウェッジフォーメーション」だったのです。

それまではボールキャリアー以外の選手が相手をブロックすることは許されていませんでした。しかしこれが許されたことでディフェンダーたちをボールキャリアーから守るためにそれ以外の選手がキャリアーを囲み、立ちはだかるディフェンダーを蹴散らしながらボールを前進させるというプレーが可能になったのです。

どちらのチームが早いかとスキルが高いとかいうことではなく、どちらのほうがフィジカルで耐久力があるかを競うために生み出されたと言っても過言ではないこのフライングウェッジフォーメーション。チームの中でも巨漢の選手たちがウェッジ(くさび形、V字形)上に陣形を組みボールキャリアを守りながら突き進んでいく様はラグビーのスクラムに似たものと理解してもいいかもしれません。

ベーシックなフライングウェッジフォーメーション

ギアもろくにつけずルールもまだ甘かった当時はこのフォーメーションのお陰でけが人を続出させました。しかしどちらが強い男の集団なのかを競い合っていたその頃の選手たちにしてみればそれも勲章のようなものだったのでしょう。

実際1892年にハーバード大で考案されたこのフライングウェッジフォーメーションは相手ディフェンスからボールを守るという面では非常に効果を発揮した戦略でしたが、それと同時にそれは過激なプレーを生みました。

なぜならこのフライングウェッジフォーメーションはオフェンスにとっては抜群のフォーメーションでほぼ無敵であったため、ディフェンスチームがなんとしてもボールキャリアにたどり着くためにどんな手を持ってしてでもこのフォーメーションを崩そうとしたからです。

相手を殴る、蹴るは当たり前。立ちはだかる壁が高くなればなるほどそれを攻略するためには対戦相手も死にものぐるいになります。故にルールがしっかりと確立されていなかったのも相まってこのフォーメーションは多くのけが人を続出させてしまいました。

その最たる例が1894年に行われたハーバード大とイェール大の試合でした。のちに「ハンプデンパーク・ブロッドバス(Hampden Park Bloodbath)」という汚名をつけられることになるこの試合において、ある選手は5時間も気を失い、別の選手は腰の骨を折り、他の選手は失明し、更には足を切断せざるを得ないほどの重症を追う選手が出るなどそれは凄惨な状況だったそうです。

その残酷さは地元だけに留まらず全米各地、更には海を渡ってドイツにもニュースとして紹介され、当時フットボールがプレーする価値のあるスポーツなのかという議論が湧いたほか、当人であるハーバード大とイェール大は3年間このライバリーゲーム開催を自粛することを決めたほどでした。

ハーバード大のフライングウェッジ

ハーバード大が最初に考案したフライングウェッジフォーメーションの使われ方はこうです。

現在で言うオンサイドキックのやり方で軽くボールを蹴りそれをリカバーしたボールキャリアーにすかさず味方が密集して「ウェッジ(V字形)」を形成。その味方がブロッカーとなりキャリアーをガードしながら前進します。

キッカー以外はラインオブスクリメージよりも10ヤード手前に配置され、キッカーがボールを蹴る前にラインを越えて前進。そしてオンサイドキックのように短いキックですぐさまキッカーがボールをリカバーすると、すでに前進していた味方選手がキッカー(つまりキャリアー)を囲み団子状態で敵陣へ突き進むのです。

そして一度勢いがついてしまったウェッジフォーメーションはそう簡単に止めることが出来ず、またボールキャリアーが囲まれてしまっているためにディフェンスからは誰がボールを持っているのかわからないという秘匿性も兼ね添えていたのです。

これを考案したハーバード大のローレン・デランド(Lauren F. Deland)氏は当時のルールにディフェンス選手がボールを蹴る前にラインオブスリメージ(Line of Scrimmage)を越えてはならないというルールがあったものを逆手に取ったのです。

またこの戦術はかのフランス皇帝ナポレオンの戦術をヒントにしたという話もあります。

フライングウェッジのほろ苦いデビュー

1892年のハーバード大フットボール部

このフォーメーションの効果がすぐに人づてにして広まり多くのチームがハーバード大の真似をするようになりましたが、彼らがこのプレーを最初に導入した1892年のイェール大との試合には実はこんな裏話があったそうです。

このフォーメーションの考案者であるデランド氏は、このフォーメーションならば相手ディフェンスのオフサイドの反則を誘発することができると考えていました。当時ペナルティ後に獲得したタッチダウンはリプレーされませんでしたから、ある意味からめ手のこの手法で相手の出鼻をくじき、次のプレーで相手ディフェンスを後ろへ引かすことが出来ればさらに得点のチャンスが増えるとデランド氏は読んだのです。

しかし前半両チームとも無得点で折り返した後半にいよいよハーバード大がこの新フォーメーションを起用しようとした際、実際のところイェール大はこのフォーメーションを前に微動だにせずオフサイドの反則を犯すことはありませんでした。まるで彼がハーバード大のこのプレーを事前に知っていたかのように。

・・・実はイェール大はまさにこのハーバード大の新しい試みをすでに「スカウト」していたのです。

当時この新フォーメーションを練習していたハーバード大の練習場であるユニバーシティーソルジャーフィールドに、この場所を提供したヘンリー・リー・ヒギンソン(ボストンオーケストラの創始者)氏が視察に訪れていたのですが、彼と共に居たある男性がこの練習を見たあとにカリフォルニア州へ赴きました。

そしてその旅先のコーヒーショップで彼は先日見たばかりの、まだ世間にお披露目されていないフライングウェッジフォーメーションの話を友人にしていたのですが、実はこのコーヒーショップにたまたまイェール大出身の人物が居てこの話を立ち聞きてしまい、このことを母校の人物に伝えなければいけないと当時の監督だったウォルター・キャンプ氏に手紙を送ったというのです。

当然手紙だけではどんなプレーなのかは完全に知ることは出来ませんでしたが、キャンプ氏率いるイェール大コーチ陣は選手たちにキックオフ時には「ボールだけ見ているように」と指示を出していたことをキャンプ氏はこの試合の数年後に明らかにしました。

そのお陰でイェール大選手たちはオフサイドを犯すこと無くこの試合を6対0で勝利することが出来たのです。この年のイェール大は13勝無敗でしかもすべての試合で無失点(429得点0失点)という圧倒的強さでナショナルチャンピオンに選出され、キャンプ氏はこのシーズン後に西海岸のスタンフォード大の監督に就任することになります。

このようにフライングウェッジフォーメーションのデビュー戦は黒星だったものの、ディフェンダーにしてみれば悪夢とも言えるこのフォーメーションはすぐに他のチームにも広がります。しかし前述のようにこのフォーメーションはフットボールを過激化することとなり、2年後の1894年シーズン終盤には禁止されるまでに至ります。

ただウェッジフォーメーション自体は最近まで使用されており、特にキックオフリーターンで使用されたウェッジブロックフォーメーションは2009年にNFL、2010年にNCAAで禁止されるまで使われ続けていました。これが禁止された理由も怪我防止ということでしたが、フライングウェッジが禁止されたあと100年以上も形を変えて使われ続けていたところがこのフォーメーションが効果抜群であったことを裏付けています。

参考記事 NCAAがルールを改正(2019年)

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