前回お話したようにアメフトの歴史はカレッジフットボールの歴史でもあるわけですが、その創成期にアメフトの改革に乗り出してその基礎を作り上げ、「アメリカンフットボールの父」と呼ばれた人物がいました。ウォルター・キャンプ(Walter Camp)氏です。
1876年から1882年までイェール大でプレーしたキャンプ氏は後に「The Game」と呼ばれることになる、全米でも著名なライバリーであるハーバード大対イェール大の最初のゲームにも1876年に出場しています。そして卒業後1888年に母校のイェール大の監督に就任します。
イェール大でキャプテンを務めた頃のキャンプ氏
まだキャンプ氏が学生だった1878年、ニューヨークのマンハッタンでカレッジフットボールのルールについて話し合う会合が行われましたが、その時彼はそれまで15人制だったのを11人制に改定するのはどうだろうか、と意見しました。出場している選手の数が少なければけが人の数も減ると考えたからです。この意見はこの会合では受け入れられませんでしたが、2年後の1880年には正式なルールとして受諾されました。これがキャンプ氏がアメリカンフットボール史において関わった最初の出来事でした。
そして1880年に行われた会合でキャンプ氏はアメリカンフットボールを大きく変えるルール改正を提案します。それはこれまで現在のラグビーのスクラムのようにいきなり相手選手にコンタクトするのではなく、ラインオブスクリメージを制定してボールを所有するチームがプレーが始まるまで相手選手とのコンタクトを受けない、という新ルールでした。これによりアメリカンフットボールはラグビーとの明確な違いを打ち立てることに成功したのです。
またこのことによりアメリカンフットボールではセンターからのスナップやダウン制の概念、そしてポジショニングの基礎でもある7人のラインマンに4人のバックフィールド選手(QB、RB、FB)が誕生することになりましたが、それもこれもキャンプ氏がラインオブスクリメージの導入を提案したからに他ありません。
その他にもフィールドサイズの制定、スコアリング(当時はTDは4点、FGは5点でした)、試合時間、審判団の配置、ヘッドギアの使用などアメリカンフットボールが独自のスポーツとして発展していく礎を築きました。
そしてキャンプ氏最大の功労と言われているのはブロッキングの導入です。ブロッキング、つまりプレーとは関係ない所で行われるインターフェアレンスのことですが、これを許したことでボールキャリアをタックルしようとするディフェンダーをボールキャリア以外の選手が邪魔することが可能になったのです。この事がオフェンスプレーの種類を格段に増やすことになり、いよいよアメリカンフットボールがラグビーとは似て非なるものへと変革したのでした。
またキャンプ氏は母校であるイェール大の監督を1888年から1892年まで務め、67勝2敗という前人未到の数字を残すと1892年、1894年、1895年にスタンフォード大でも監督を努め、通算79勝5敗3分けというとんでもない記録を打ち立てました。もっとも当時のカレッジフットボールの勢力図を考えればイェール大に立ち向かえるチームなどほとんど居なかったわけですが、それでも監督としての手腕はこれまでご紹介したルール制定と合わせてキャンプ氏がアメリカンフットボール並びにカレッジフットボール界でどれだけ重要な人物であるかが理解できると思います。
結局1895年度シーズン以降は現場からは足を洗いましたが、その後もイェール大フットボール部並びにアメリカンフットボールの興隆に大きく貢献。ライターとしても活躍し、今も制定されるオールスター選手たち、いわゆる「オールアメリカン」を独自に選出もしており、その伝統は今でも受け継がれています。この時から既にキャンプ氏は周囲から「アメリカンフットボールの父」と言われていたそうです。