アメリカンフットボールの起源は古く、その原型は1830年代から40年代まで遡ることが出来ると言われています。当時のそれは現在のものと比べるとむしろサッカーやラグビーに似ていました。
その中でも「モブフットボール(Mob Football)」と呼ばれる、非常に暴力的な「スポーツ」が欧州から伝来。スコアするためなら何でもありの、ルール無用の男たちの根性比べであり、怪我が付き物の荒くれ者たちの戦いとなっていました。その無秩序さからコミュニティからは毛嫌いされ、現在のアイビーリーグ所属チームであるハーバード大、イェール大、プリンストン大、ダートマスカレッジなどでは相次いでモブフットボールが禁止される事態に陥りました。
史上初のカレッジフットボールゲーム
そんな中、1869年11月6日の秋も深まり木々の落葉が目立ってきた肌寒い午後、ニュージャージー州にあるラトガース大(当時のカレッジオブニュージャージー)と彼らのキャンパスからほど近いところに所在するプリンストン大がラトガース大キャンパスで激突。この試合は現在のフットボールと比べればどちらかというとサッカーに似ており、ボールは丸くゴールポストはサッカーのゴールとゴールポストのあいのこといった感じでした。
ユニフォームなどはなく普段着で行われたこの試合、1チーム25人編成と今とは大分かけ離れたルールで、投げることもキャリーすることも禁止。ボールを前に前進させる術はキックのみ。得点はスコアごとに1点のみ。1点取るたびに攻撃方向を交代。タッチダウンもフィールドゴールも存在せず、まさにゲーム展開はサッカーのようでスコアリングはテニスのよう。それにラグビーのような荒々しさを混ぜ合わせたようなイベントでした。ただ、互いのチームを見分けるためにラトガース大の選手は真紅のスカーフをターバンのように頭に巻いたということです。
試合は6対4でラトガース大に軍配が上がりますが、この試合が大学対抗試合としては最初の試合とされており、これがカレッジフットボールの始まりだと言われています。
記念すべきカレッジフットボール史上初の試合での勝利を祝して作られたラトガース大の記念碑
両チームは1週間後再び相まみえ、リベンジに燃えたプリンストン大が地元でラトガース大を8対0で一蹴し見事雪辱を果たすことに成功しました。元々は合計3試合が予定されていたということですが、このゲームが学業に支障をきたしているとして3試合目は両大学側により中止に追い込まれました。しかし、このスポーツを聞きつけたニューヨーク州マンハッタンに所在するコロンビア大が第3のチームとして翌年参戦。その後もイエール大、スティーヴン工科大、ニューヨーク大、ニューヨーク市立大などが次々と名乗りを上げました。
このように徐々に新しく興隆した流行に乗る大学生たちが増え続けたため、1873年頃には統一したルールを確立しようという機運が高まり、同年10月にラトガース大、プリンストン大、コロンビア大、イェール大の各代表者がマンハッタンに集まり、史上初の統一ルールを制定することに至ったのです。
現在のルールとはかけ離れたものではありましたが、当時各々のチームが独自のルールを持っていたことを考えれば、統一したルールを制定したことはスポーツとしてのフットボールの進歩に大きな貢献を果たしたといえます。この時では考えられもしなかったパスオフェンスは現在では辞書よりも厚いプレイブックが必要になるまでに進化しましたし、オフェンスのフォーメーションに対してディフェンスが対応することだとか、事細かく決められたブロッキングのスキームだとか、これらは元を辿れば全て100年以上も前に先人たちがルールを統一しようと試みたから実現したことに他ありません。
変わらぬ要素
そのようにアメフトのゲームは時を経てその形を変えていきましたが、その中でも唯一と言っていいほど形を変えていない(その度合いは変わったかもしれませんが)のがその激しさです。
現代のアメフトでは選手のスピード、サイズ、身体能力、パワーなどは創成期のそれと比べると格段に進歩しました。またルールも変わり、ヘルメットやショルダーパッドなどは技術や手に入る素材の進化とともに向上し、選手の交代も自由にできるようになったことにより、カレッジフットボールが始まった頃に続出していた死者の数もぐっと減ることに成功しました。アメフトは今ではチェスのような頭脳戦に近いものにまで形を変えました。
しかし、その度合は変わったとは言え、フットボールが体と体のぶつかりあいであることは150年たった今でも基本的には変わっていません。
かつてのフットボールは、戦争に送り込まれた兵隊同士の戦いにも似た様相を醸し出していました。また当時のカレッジフットボールは前出のようなアイビーリーグ出身の男子学生たちが放課後に力試しをするような課外イベントでした。肉体で秀でている男たちは誰なのか、ということを体で証明する「社交場」だったのです。
そんな初期のフットボールは地理的にアメリカ北東部で草の根的に発展し、プリンストン大、イェール大、ハーバード大、ペンシルバニア大といったアイビースクールのお陰でサッカースタイルから徐々に現在のフットボールに近いスポーツに変革を遂げていったのです。
そして、ルールやプレースタイルが変わっていくにつれて、カレッジフットボールはゆっくりながらランだけでなくパスプレーが導入されたり、また選手の交代にも制限がかけられなくなると、選手の体力を温存したりけが人の数を減らすことに繋がっただけでなく、ある特定のプレー専門の「スペシャリスト」を生むことにも貢献していきました。