ドラフトが始まって80年ほど経ちましたが、これだけ長い間ドラフトが行われてくれば、時に珍事も起きるものです。ここではこれまでのドラフトで起きたちょっと変わった逸話を紹介したいと思います。
目次
ギャンブラー、レイダース
ノートルダム大のラヒーブ・イスメイル(Raghib Ismail)は1991年のドラフトでは目玉選手に数えられていました。しかし彼はNFLではなく高い報酬が見込めるカナディアンフットボールリーグ(CFL)のトロントアーゴナッツと契約を結びました。
イスメイルの心はすでにCFLに移っていましたが、オークランドレイダースはそれにもかかわらず第4巡目で彼を指名したのです。
数年後アーゴナッツは経営危機に陥り、イスメイルは実際にレイダースに入団することになり、トータル10年間をNFLで過ごすことになるのでした。
日曜日じゃなかったら・・・
ブリガムヤング大のOTだったイーライ・ハーリング(Eli Herring)は1995年のNFLドラフトで第1巡目から第3巡目という高順位でドラフトされると予想されていました。しかし敬虔なモルモン教徒であったハーリングにとって日曜日はモルモン教の安息日として仕事はしてはいけないことになっており、彼自身NFLの各チームに自分はNFLでプレーしないと通達していました。
もちろんそれを受けて多くのチームが彼に手をつけることはしませんでしたが、オークランドレイダースは何を思ったのか(笑)ハーリングを第6巡目で指名しました。彼らがハーリングに一か八かでオファーした理由として、50万ドル(約5000万円)をオファーするぐらいのことは「神からのギフト」のようなものだから、といっていたということです。
結局ハーリングはこの誘いに乗ることはありませんでしたが、このような無意味なドラフトチョイスをするレイダースを嘲笑する言葉として「レイダースはまたハーリングを釣ろうとしている」といったヘッドラインがその後も地元ニュースの見出しを飾るようになったのでした。
時間切れ!
2003年のドラフトでミネソタヴァイキングは自身の第1巡目(総合7番目)の指名権を巡り、ボルティモアレイヴンズ、ジャクソンビルジャガーズ、ニューイングランドペイトリオッツとトレードを模索していました。しかしその話し合いに気を取られ、15分間の制限時間をオーバー。ヴァイキングスは何と選手をドラフトするチャンスを逃してしまったのです。
それだけでなく、ヴァイキングスが選手を指名しなかったおかげでその直後のジャガーズ、カロライナパンサーズはその「余波」を受け、結果的にジャガーズはQBバイロン・レフトウィッチ(Byron Leftwich、マーシャル大)を、そしてパンサーズはOLジョードン・グロス(Jordon Gross、ユタ大)を急遽選択。そしてようやくヴァイキングスに選択権が回ってきましたが(総合9番目)、彼らはDLケヴィン・ウィリアムス(Kevin Williams、オクラホマ州立大)を指名。結果的にウィリアムスはチームに貢献するようないい選手に成長してくれましたが、第1巡目の指名権を「放棄」したことはヴァイキングスにとっては汚点となってしまいました。
また同じことが2011年にも起きています。今度はレイブンズがカンザスシティーチーフスとトレードの交渉をしていましたが、上記のように時間内に交渉をまとめられず、レイブンズが指名権をパスする事態に陥りました。
時間切れ?
たった今紹介した通り、2003年のバイキングスのドラフトは第1巡目からドタバタ劇となってしまいましたが、実はその前年の2002年にもドラフト第1巡目を巡っていざこざに巻き込まれています。
この年の第1巡目、第6番目の指名権を持っていたダラスカウボーイズは、第6番目と8番目の指名権をカンザスシティチーフスとトレードする話を行なっていました。しかし交渉話がこじれ、話がまとまった時にはすでに時間オーバーになったと誰もが思いました。そしてそれを見たバイキングスはすぐさまDLライアン・シムス(Ryan Sims、ノースカロライナ大)を指名しますが、ドラフト運営側はカウボーイズとチーフスのトレードは時間内に成立していたとして、結局バイキングスはシムスをチーフスにかすめ取られてしまったのです。
仕方なくバイキングスはマイアミ大出身のブライアント・マッキンニー(Bryant McKinnie)を指名しますが、このマッキンニー、契約を結ぶまで時間がかかりようやくサインしたのはシーズンもすでに始まった10月半ばでした。
喋れないQB?
1950年代クリーブランドブラウンズで活躍していたQBオットー・グラハム(Otto Graham、ノースウエスタン大)でしたが、年齢には勝てず徐々にそのパフォーマンスが低下。それを見たチームは1954年のドラフトでスタンフォード大のスターQBボビー・ギャレット(Bobby Garrett)に目をつけました。
しかしその当時スカウティングは発展しておらず、噂だけでギャレットをドラフトしたブラウンズは実際にプレーする彼を見て驚愕するのです。
ボールも投げられる。走ることもできる。しかし彼はオフェンスの指揮官として不可欠な「プレーを選手に伝える」ということができなかったのです。なぜなら彼はどもりながら喋るという癖があったからです。
ハドルでプレーをチームメイトに伝えたり、スナップ前にプレーをオーディブルで変更したりする時、QBは当然プレーを他の選手に喋って教えなければなりません。しかしどもって何を言っているかわからないギャレットはチームで使えないことをブラウンズはすぐさま察知。その事を何も知らないグリーンベイパッカーズに1対6のトレードでギャレットをパッカーズに送ってしまいました。
ドラフトが始まって80年ほど経ちましたが、これだけ長い間ドラフトが行われてくれば、時に珍事も起きるものです。ここではこれまでのドラフトで起きたちょっと変わった逸話を紹介したいと思います。
結局ギャレットはNFLで9試合しか出場することができませんでしたが、トレードで彼を獲得したグリーンベイもきっと相当驚いた事でしょう。
レッドスキンズ最初の黒人選手?
まだ黒人差別が色濃く残っていた1950年代、ワシントンレッドスキンズのオーナー、ジョージ・プレストン・マーシャル氏は黒人選手を雇うことを嫌い、多くの白人主義ファンを喜ばせるためならば例え試合に負け続けたとしても黒人選手をチームに入れることを拒絶し続けたのです。
そんなマーシャル氏は常々「スポーツライターはフットボールのことを本当はよく知らないんだ」と豪語していました。そこで1952年のドラフト会議において主要紙ワシントンポスト紙の記者であったモ・シーゲル氏は「だったら自分にドラフトの指名権を与えてください。スポーツライターが何も知らないのかどうか試してみようではありませんか。」と話を持ちかけました。それに乗ったマーシャル氏はシーゲル氏に終盤ラウンドでの指名権を託したのです。
するとシーゲル氏はテネシー工科大のフラヴィオウス・スミス(Flavious Smith)を指名するようにマーシャル氏に提言。そしてマーシャル氏はその助言どうりにスミスを指名します。
ただここでマーシャル氏には知らされていなかった事実が。実はこのスミス、黒人選手だったというのです。
指名が終わった後何も知らないマーシャル氏はシーゲル氏に「おめでとう、君がドラフトの歴史で初めて指名権を行使したスポーツライターとなったよ。」というとシーゲル氏はすかさず、「おめでとう、あなたはこれでようやくレッドスキンズを近代化したんですよ。」と話したと言います。
スミスが黒人であると知ったマーシャル氏はコミッショナーに詰め寄り、スミスを選択したことを取り消すように要求(それだけ黒人嫌いだったんですね)。面白いのは当のスミスはこの一連の話を聞くのは相当後年になってからになったということです。
しかし話はここで終わりません。黒人だと思っていたこのスミス。実は白人だったというのです。シーゲル氏は噂としてスミスが黒人だと聞いていただけであり、彼も実際スミスを見たことがなかったのです。それだけ当時のドラフト候補の情報が限られたものであったということです。
データを鵜呑みにしてはいけません!
ダラスカウボーイズは早い段階からコンピューターを使ってドラフト候補選手たちのデータを集めてスカウティングに利用することに長けていました。彼らを真似て多くのチームがこの手法を取り入れたことを考えれば、カウボーイズはこの側面で革命を起こしたとも言えます。しかし彼らは成功ばかり納めていたわけではありませんでした。
「弾丸のボブ」と呼ばれたボブ・ヘイズ(Bob Hayes、フロリダA&M大)が活躍していたカウボーイズは同じく俊足で鳴らしたミズーリバレー州立大のデイヴ・マクダニエルズ(Dave McDaniels)を1968年ドラフトで第2巡目に指名します。
カウボーイズのデータベースには40ヤードダッシュのタイムは4.4秒ということでかなり足の速い選手とされていました。しかし実際にカウボーイズで走らせてみると40ヤード4.4秒の選手とは思えないほど足が遅かったのです。何度計測しても同じ結果しか出ませんでした。
そして色々調べていくと、彼の4.4秒というタイム、実は40ヤードではなく38ヤードだったということが判明したのです。数字として記録を鵜呑みにして実際の足の速さを見れなかったのが痛手となったのでした。
ただ、カウボーイズはタダでは転びませんでした。翌年となる1969年、俊足のWRを欲しがっていたフィラデルフィアイーグルスはカウボーイズとトレードの話をまとめ、マクダニエルズの代わりにマイク・ディトカ(Mike Ditka、ピッツバーグ大)を獲得。このディトカは1972年の第6回スーパーボウルで見せたTDキャッチなどカウボーイズで活躍することになりました。それもこれもマクダニエルズをトレードに出したおかげだったのです。ちなみにカウボーイズはイーグルス側にマクダニエルズが本当は足が早くない選手だということを秘密にしていたそうです。イーグルスもおそらく彼の足の遅さに頭を抱えたことでしょうね。
「最も注目の薄い選手」
1976年のドラフト以来、その年の一番最後に指名された選手のことを「最も注目の薄い選手(Mr. Irrelevant)」と呼ぶようになりました。それは現在のドラフトでも続いている一種の「伝統」なのですが、1976年でドラフト史上最初の「Mr. Irrelevant」にケルヴィン・カーク(Kelvin Kirk、デイトン大)がピッツバーグスティーラーズに指名されると、この「Mr. Irrelevant」の命名者であるポール・サラタ(Paul Salata)氏がカークのために盛大なパーティーを催したのです。すると「一番注目されない男」のはずが、最後に指名されることによって一気にスポットライトを浴びるようになりました。
すると1979年のドラフトでは再びスティーラーズが「Mr. Irrelevant」を引き当てる権利を得るのですが、その一つ前の順番であるセントルイスラムズもこの「Mr. Irrelevant」を欲しがりました。理由はただ一つ。話題が欲しかったからです。そこでラムズは自分たちの最後の指名の順番になったところでそれをパスしてスティーラーズに指名順をわざと譲り、自分たちが「Mr. Irrelevant」をドラフトできるようにしたのです。
しかし同じように「Mr. Irrelevant」をドラフトしたいスティーラーズがなんとラムズがパスした指名権をさらにパス。このように一番最後の選手を引き当てたいがためにお互いが最後から2番目の選手の指名権をパスしあったのです。
これに業を煮やしたコミッショナーのピート・ロゼル氏は「サラタルール」を発動。これは「Mr. Irrelevant」を引き当てるためにわざと最後の選択権をパスすることを禁止するものでした。
ちなみにこの年「Mr. Irrelevant」を引き当てたスティーラーズが選んだのはマイク・アーモンド(Mike Almond、ノースウエスタン州立大)。彼にはロウズマントロフィーが送られました。ロウズマントロフィーはカレッジフットボールの最高峰、ハイズマントロフィーを文字って(”ハイ=high”ズマンに対して”ロウ=low”ズマン)名付けられたものですが、トロフィー自体もユニークで、ハイズマントロフィーと違ってロウズマントロフィーでは選手がボールをファンブルしているように彫られています。
フォートアパッチ州立大のジョン・ウェイン
1972年のドラフトでアトランタファルコンズは「ジョン・ウェイン」を指名しました。
そうです、あの俳優のジョン・ウェインです。
実はウェインは1920年代にサザンカリフォルニア大でスカラシップ(スポーツ奨学金)を貰いながらちゃんとフットボール部に所属していました。
1976年のドラフト会議の第17巡目、ファルコンズのノーム・ブロックリン監督は自分の順番が回ってくると立ち上がり、周囲に「みんな、この世で一番タフで荒くれ者をこのドラフトで指名したくはないか?」と叫んだそうです。そして皆一堂にその案に乗っかるとブロックリン監督は声高々に「我々アトランタファルコンズはフォートアパッチ州立大のジョン・ウェインを指名する!」と叫んだのです。ちなみにフォートアパッチ州立大などは存在せず、これはウェインが主演を務めた「アパッチ砦(Fort Apache)」から拝借したものです。
もちろんコミッショナーのピート・ロゼル氏はこれを認めませんでした。でも名誉ドラフト選手としてウェインの指名を許しても良かったのではないでしょうか。ネタ的には最高だと思いますが・・・。昔はこんなことを本番のドラフト会議で言えるほど今ほど堅苦しくなかったということでしょう。
ちなみにグリーンベイパッカーズの殿堂入り名将、ヴィンス・ロンバーディ(Vince Lombardi)監督はよく「勝つことは全てではない。それは唯一絶対のものだ!(Winning isn’t everything, it’s the only thing)」と言っていました。これは彼の有名なフレーズとして残されていますが、実はこのセリフ、ロンバーディ監督がウェインが主演していた「勝負に賭ける男(Trouble Along The Way)」で彼が放ったセリフをそのまま流用していたのです。そしてウェインはこの映画でフットボール部監督を演じていました。あのロンバーディ監督ですら拝借したウェインのセリフ。彼がドラフトされていたら面白かったでしょうね。
教えて欲しかった・・・
フィラデルフィアイーグルスは1944年のドラフトでシラキュース大のノーム・マイケル(Norm Mickael)を第18巡目でドラフトしました。しかしマイケルがイーグルスでプレーすることはありませんでした。なぜなら誰も彼がイーグルスから指名されていたことを本人に伝えていなかったからです。
時が経ち1999年、老いたマイケル氏は偶然新聞上で「これまでNFLにドラフトされたシラキュース大出身選手一覧」を見つけ、それを読んでいくと・・・なんと自分の名前が掲載されているではありませんか!その時まで彼は自分がプロチームから声がかかっていたことを知らなかったのです。
これを知った家族はイーグルスに手紙を送って確認を取ったそうです。彼曰く、「(手紙を送った)息子はひょっとしたらイーグルスは私をドラフトした際の契約金がまだ残っているか知りたかったんじゃないですか?もしそれに利息がついていたら57年分の利息ですからね!」と笑いました。
騙されたジャクソン
アーバン大出身のスーパースター、RBボ・ジャクソン(Bo Jackson)は1986年度のドラフトで第1巡目第1番目にタンパベイバッカニアーズに指名され、5年契約の760万ドルという破格の契約を提示されました。しかし大リーグで野球をしたかったジャクソンはこれを拒否。しかもそのことは前々からバッカニアーズに伝達されていたのです。
ジャクソンがタンパベイとの契約を拒否したのは彼が野球の道に進みたいからだけではありませんでした。実はこれ以前にジャクソンとタンパベイの間で起きた出来事でジャクソンはタンパベイに嫌悪感を抱いていたのです。
というのもタンパベイのオーナー、ヒュー・カルヴァハウス氏はフットボールシーズンが終わった後、ジャクソンを自身のチャーター機を使ってタンパに呼び寄せたのですが、これがNCAAの規則違反に抵触し、ジャクソンのアーバン大での野球のプレー資格を失うことになったからです。
「当時私はタンパに行く気はありませんでした。しかしタンパベイの関係者はこのこと(オーナーのチャーター機を使うこと)はNCAAに確認済みで問題ない、というのでタンパへ行ったのです。しかし後で考えてみるとこれは彼らの策略だったんです。彼らはこのことで私の野球資格が失われることを知っていた。もし私が野球を続けていれば、私はNFLではプレーしないだろうと思い、それを阻止するためにこの旅行を計画し、私の大学野球のプレー資格をわざと失わせようとしたのです。そうすれば私の気が変わってNFLでプレーすると思ったんでしょう。」とジャクソン氏はタンパベイの陰謀説を語っています。
「私は何度もカルヴァハウス氏に『もし私を指名したらその指名権を無駄にするだけですよ』と警告したんですけれどね。」
結局MLBカンザスシティロイヤルズに進んだジャクソン氏でしたが、1987年にオークランドレイダースから第7巡目で指名されます。レイダースのオーナー、アル・デーヴィスはジャクソンにプロ野球とプロフットボールの二足の草鞋を履くことを許し、ジャクソン氏は野球シーズンが終わる第8週目からレイダースに合流。シーズンの半分しかプレーしませんでしたがそれでもチームに大いに貢献する数字を残しました。
タンバベイも正攻法でジャクソン氏と掛け合っていればよかったのかもしれません。
オールイン!
近年のドラフトで忘れられないのは1999年のニューオーリンズセインツのドラフト方法。この年、なんとセインツは目玉選手であったリッキー・ウィリアムス(Ricky Williams、テキサス大)を獲得するために彼らが持っていた指名権全てをトレードや交渉で使ったのです(もっと言えば翌年2000年の第1巡と第3巡目の指名権も)。
そんな全てを投げ打ってウィリアムスのポテンシャルにかけたニューオーリンズ。結局ウィリアムスが生涯ヤードで10000ヤード以上を稼いだことを考えれば、ここまでして彼を獲得したかったセインツの必死さもわかります。ただ、残念なことにこの10000ヤードの半分以上はセインツ時代ではなく移籍先のマイアミドルフィンズで達成されることになるのですが・・・。
ジミー・ウォーカーの歴史的瞬間
1967年のNBA(プロバスケットボールリーグ)のドラフトで第1巡目第1番目に指名されたのがジミー・ウォーカー氏。しかしなぜかニューオーリンズセインツは彼を第17巡目の最後の最後、いわゆる先に紹介した「Mr. Irrelevant」として指名したのです(当時はまだMr. Irrelevantという言葉はありませんでしたが)。
フットボールの経験がないウォーカー氏がNFLに行くはずもなく、NBAではオールスターに2度選出され、トータル11655ポイント獲得するなど活躍。当然ウォーカー氏の選択は正しかったことになりました。
マニングのいざこざ
2004年、サンディエゴチャージャーズは当時ナンバーワンQBと目されていたイーライ・マニング(Eli Manning、ミシシッピ大)をドラフトするだろうと前々から予想されていました。しかしマニングはチャージャーズではプレーしたくないと公言。それでもチャージャーズはマニングをドラフト1位指名します。
一方ニューヨークジャイアンツはノースカロライナ州立大のスターQB、フィリップ・リバーズ(Philip Rivers)を1巡目に選択。そして両チームはこの二人のQBを取り替えっこしたのです。
すでに出来レースであったこの指名劇はドラフト前から漏れていた話だったので、チャージャーズにドラフト指名された際、マニングはチャージャーズファンだけでなく多くのNFLファンから相当なブーイングをくらいました。おそらくチャージャーズはマニングをジャイアンツに送るのと引き換えに多額のトレード金を受け取ったと思われます。
ご承知の通りマニングはジャイアンツで2つのスーバーボウルを獲得。一方チャージャーズのリバーズは現在もフランチャイズの顔として先発QBの座を守っていますが、未だスーパーボウルは獲得していません。結果的にこの取り替えっこで得したのはどっちか・・・。答えは明白ですね。